1792年4月フランス革命政府はオーストリアに宣戦布告します。オーストリアはロシア、英国と同盟して戦いますがフランス軍に敗れ、ナポレオンが1805年11月にウィーンへ入城します。一旦はウィーンから逃れたフランツ2世はロシアと共に反撃を試みますが、再び敗れ屈辱的な和平を強いられます。そして1809年、再々フランスに戦いを挑みますが、これにも敗れてしまいます。
 この後始末に活躍したのがメッテルニッヒ侯爵です。メッテルニッヒは融和策として、ナポレオンをハプスブルグ家の姻戚に加えようと画策し、成功します。ナポレオンの前妻ジョセフィーヌは離婚され、フランツ1世の皇女マリー・ルイーズがナポレオンの妃になりますが、その後のナポレオンは全くツキが落ち作戦の失敗続きで最後はエルバ島へ流されてしまいます。機を見るに敏なメッテルニッヒは、ナポレオンの蹂躙にあった諸国に、ウィーンで戦後処理会議を開くことを提案し、かの「会議は進まず されど会議は踊る」という言葉で有名なウィーン円卓会議が開かれます。会議は半年以上も延々と続くのですが、ナポレオンのエルバ島脱出の報を聞いた途端、諸国は急遽妥協し、会議は終結します。この結果、メッテルニッヒの思惑どおり、オーストリアはベルギーとルクセンブルグを放棄する代わりに、ヴェネチア、ロンバルディアを得るのです。
 ウィーン円卓会議から30年の間、フランスとの確執も治まったことからウィーンは繁栄と安定を謳歌します。経済力を持ったブルジョワジー層が台頭してきて労働者階級と貴族の間に新たな知的市民層を形成します。この知的市民層が好んだスタイルを「ビーダーマイヤー様式」といいます。ビーダーマイヤー(善良なマイヤー氏)とは当時もてはやされた漫画の主人公の名前です。ビーダーマイヤー様式はシンプルな形態の中にさりげなく装飾が施され、歴史主義や古典の模倣ではなく現実感覚に根ざしたスタイルで、今日言うところのモダンデザインの始まりだったのです。
Browsing EYE-6
Biedermeier