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チェコキュビズム
 キュビズムは今世紀の初頭を飾った、極めて特異な様式の一つです。物の表面的形態(視覚的形態)を否定し、その物が持つ本質的な形態(ヴォリューム)を掴みだし表現することによって物を構造的にとらえようとする方法です。チェコ・キュビズムは建築、家具から磁器、ポスター等の応用美術に至る広い分野で、鋭い火花のように燃焼しました。第一次大戦(1914)勃発直前の数年、東欧の中心チェコで起きました。
 当初はウィーン工房の盟主たるヨーゼフ・ホフマンへの接近もありましたが、以降はボヘミア独自の造形感覚を得ています。
 チェコ・キュビズムは、贅肉を取り去った造形単位(ヴォリューム)の相互貫入と鋭角を主体とした結晶構造への偏愛、彫塑的な一体性といった造形上の特徴を持っています。
 とくに「鋭角構成」や「結晶構造」は独特なものですが、造形作家の恣意的な発想によるものでないことは、例えばプラハの町並みを見れば容易に理解できます。
 西暦700年頃リブシェ王妃によって創始されたプラハの街は異民族の侵入や戦争、大火などによる大破壊を受けず、ロマネスクからゴシック、バロック、折衷様式、ゼゼッションにいたる建築様式が多く残り、建築造形の宝庫とも呼ばれています。中でも針のように鋭い尖塔を持つ教会や城の屋根はチェコ独特の造形感覚であり、結晶構造への偏愛も偶然ではないように思えます。
 チェコ・キュビズムは一種の形態至上主義であり、建築とオブジェ、オブジェと日常小物の造形上の境界を取り去っています。つまり、機能や目的の充足を建築の第一義に置いたモダニズムとは異なる価値観に立脚していわけであり、機能、目的、生産などに対する異議申し立てという側面では、ポストモダニズム建築の先駆的存在ということもできます。
Stacks Image 1963
 アルバート・アールトは1898年フィンランドの中西部クオルタネで生まれました。ヘルシンキ工科大学に進みジグルド・フロステルスの指導を受けます。フロステルスはバウハウスの前身であるワイマール美術学校を創始したアンリ・ヴァン・デ・ヴェルドの弟子で、当時北欧を席巻していたナショナルロマンチック様式(アール・ヌーヴォー様式)に批判的な立場を取っており、より機能的なデザインスタイルを提唱していたのです。
 アールトは1921年に大学を卒業しますが、折からの不況で就職ができず、2年ほどヨーロッパを旅することに費やしました。1923年にユヴァスキュラで事務所を開きますが、しばらくは不遇の時間が続きます。
 最初に成功をおさめたのがパイミオのサナトリウム(1933年)です。現在、われわれがアールトのデザインメソッドと感じるものは、この設計でみごとに現れています。シンプルな白いインテリア、水平感を強調する連続した窓、建物端部に表情を持たせた空間性など、モダニズムテイストがあふれています。しかも、ここに見られるのはバウハウス流の冷たいモダニズムではなく、ディテールや色づかい、造形に暖かさがあります。サナトリウムという建築だからではなく、この暖かさは後のアールト建築を特徴付けたものと言えます。
 ヘルシンキの街外れにアールトのアトリエと、5分ほど歩く距離に住宅があります。回りは高級住宅が建ち並んでいますが、二つとも小さいながらアールトのデザインソースがギッチリ詰まった建築です。アトリエは光の導入を工夫した打合せ室、原寸の細部意匠や建築模型を確認するためのスタジオスペース、所員の食堂、小さな屋外コンサートスペースなどを自由に見ることができます。住宅の方は居間や寝室、水回りなど、実際にアールトが住んでいた当時そのままに保存されており(吸っていたタバコの箱までそのまま)、こちらは予約をすれば自由に見学できます。
 どちらも共通しているのはシンプルなモダンさの中に細かいディテールがあり、素材の切り替えや使い方が巧みだと言うことです。とくに、インテリアの素材使いは巧みで、柔らかい素材、金属素材、セラミックなどがまさしく適材適所に用いられ、独特の暖かい空間を造り出しています。また、コルビジェの影響かも知れませんが、スケール感も、モダンデザインにあり勝ちな断絶したモノではなく、ヒューマンスケールから建築・都市のスケールまで破綻なくつながっています。
Stacks Image 1964
 最近のヨーロッパのホテルはいわゆるデザイナーズホテルがまん延しつつあります。従来のクラシックなヨーロッパスタイルのホテルはだんだん少なくなり、画一的なインテリアと設備を提供するアメリカンスタイルのホテルとデザイナーズホテルの増加が目に付きます。アメリカンスタイルのホテルは団体旅行などの時に部屋のグレード差が少なく、旅行会社にはありがたい存在なのでしょう。
 デザイナーズホテルはパリのサンジェルマンにある、La Villaあたりから始まったようです。日本ではアルド・ロッシの手になる博多のイルパラッツォ、新宿のパークハイアット等が代表的な存在と言えます。
 ヨーロッパのデザイナーズホテルは建物全体を建て直すことは難しいため、外観はクラシックなまま、もっぱらインテリアと設備にデザイナーの腕が振るわれます。
 このタイプのホテルに宿泊してみると、いくつかの共通点が浮かんできます。まず、木部はアジアンテイスト風に濃く着色された木材が使われ、壁面は無地の白い素材が使われます。北欧系の場合は木部は素地を生かしたナチュラル仕上げになります。照明は間接照明が用いられますが、間接照明は部屋全体の照度が低くなるため、スタンド等によって必要な部分の照度を補います。また、アクリル板やファブリックスを利用した透過照明も多く使われます。
 設備ではトイレやバスタブ、シャワーブース等の間仕切りやドアは透明のガラスが使われます。水栓金物や洗面台などは鋭角又は直角デザインのものが使われ、滑りやすいタイル床とあいまって入浴する場合にはかなりの緊張を強いられるのもデザイナーズホテルの特徴です。中にはどうみても日本のファッションホテルを参考にしたとしか思えないような開口部が浴室にあったりして、おじさん二人組などで宿泊するとかなりキツイものがあります。
 デザイナーズホテルの問題はどこに泊まっても同じようなテイストということです。最初の内は面白いと思っていたのですが、最近は「また、デザイナーズホテルですか」とやや食傷気味です。
Stacks Image 1965
 最近のデジタルカメラブームでは先ずは、撮像素子の画素数競争が先行しており、年々素子の画素数が上がっています。一般の方がA4用紙程度にプリントするには600万画素もあれば充分ですが、車の馬力性能競争宜しく、メーカーと販売店は一向に画素数の多寡をあおることを止めようとしません。画素数を無理に上げればノイズが発生し、画像のクリア感が損なわれるのですが、相変わらず初心者に判りやすい画素数という「数字」で勝負しています。
 画素数に加え付加価値としてレンズのブランドバリューを訴求するメーカーもあります。その、ブランドとして最も多く利用されているのがカール・ツァイスレンズです。
 カール・ツァイス社はカール・フリードリッヒ・ツァイスによって1846年旧東独イエナで生まれました。イエナの街はゲーテ街道の中心地ワイマールに隣接していますが、一般的な観光資源に乏しくカメラ好き以外には興味を持たれない街です。
 カール・ツァイスを語るときにエルンスト・アッペ(1840-1905)の業績を避けることはできません。数学と物理に長けていたアッペは光学ガラスの専門家フリードリッヒ・オットー・ショットの協力を得て優れた光学レンズをたくさん生み出しました。それらは顕微鏡、望遠鏡、カメラ用レンズ、メガネレンズなどを通じてカール・ツァイスの名を世界に知らしめたのですが、アッペは経営者であると同時に社会運動家の側面も持っていました。
 当時は英国のニューラナーク紡績工場などでも同じことが起きていましたが、ロバート・オーウェンなどによる社会主義運動の影響を受け、劣悪な労働環境を改善して、企業の利益を社会に還元するという、シンプルなユートピア思想が広まっており、アッペも又カール・ツァイス財団を設立して、労働環境の改善や資本家による利益の独占を排除したのです。安定した労働環境は労働者や研究者の勤労意欲を向上させ、優れた製品を生み出すことになります。
 その優れた製品の一つに、パウル・ルドルフが発明したテッサー(TESSAR)タイプのレンズがあります。これは合計4枚の凹レンズと凸レンズを巧みに組合せ、レンズ長が短く光学特性に優れたレンズで、近代レンズの基礎となった技術であり、現在のカメラ用レンズはTESSARから始まったと言われています。
写真はTESSAR 2.8/50 にて撮影。アッペ廟はヴァン・デ・ヴェルデの設計。
Stacks Image 1966
 チェコ・ブルノ市内の公園に隣接した小高い丘の上にチューゲントハット邸は建っています。建てられたのは1928-1930年で設計者はミース・ファン・デル・ローエです。
 ミースは1886年ケルン近くの街アーヘンに石工の息子として生まれました。工芸家ブルーノ・パウルの弟子となり、その後P.ベーレンスの事務所に入ったのち独立。「鉄とガラスの高層建築案」などを発表します。1926年ドイツ工作連盟の会長となり、1930年にはデッサウ・バウハウスの校長に就任します。第二次大戦前にアメリカに渡り、1944年にはアメリカの市民権を得てアメリカに居住し、1969年に亡くなりました。
 ミースの言葉で最も有名なものは Less is More ではないでしょうか。この言葉はミースのインターナショナルスタイルを的確に表現しているとも言えます。ミースは鉄とガラスという素材を最も現代的にデザインした最初の建築家です。鉄とガラスという素材だけで見ればロンドンのクリスタルパレスやパリのグランパレなども立派な鉄とガラスの建築ですが、ミースは空間を鉄とガラスを用いた抽象的なシェルターとしてデザインしたのです。
 壁などはその抽象性を阻むものとして極力取り除かれます。空間は間仕切りや家具などで緩やかに仕切られつつも大きな一つの連続性の中にあります。ミースはこの連続性をユニバーサルスペースと呼びました。鉄とガラスという、どこでも手に入る材料と抽象的な空間構成、これが世界のどこに建てても成り立つという意味でインターナショナルスタイルと呼ばれたのです。
 このインターナショナルの代表作がチューゲントハット邸です。道路側からは平屋に見えますが、庭園側から見ると2階建てです。居間の庭園側には巨大な連続するガラス窓が設けられ、このガラス窓は下方にスライドして地下部分に収納され、リビングは外部空間と一体化します。構造体の鉄柱はクロームメッキされたカバーで覆われ、元々細い柱が更に細く、存在感が希薄になるようデザインされています。家具や空間構成など、世界遺産チューゲントハット邸にはミースの建築哲学が余すところ無く注ぎ込まれています。
Stacks Image 1967
 ウィーン随一の繁華街ケルントナー通りをオペラ座方面から進み4つ目の角を左に曲がって数メートル先に間口4メートルほどの小さなバーがあります。二段の看板が掲げられ上にはアメリカンバー、下にはケルントナーバーと書いてあります。下の看板は星条旗を模したデザインで、いささかウィーンには似つかわしくない佇まいですが、このバーこそ建築使徒が訪れる聖地の一つなのです。
 バーの広さは正味10坪程ですが、思いのほか広く感じます。それは天井の周囲に張り巡らされた鏡と石材を薄く削いで張った壁面による効果です。鏡は見上げたときに、隣室があるように視覚を錯覚させ、壁面は透過性を持っていて広がりを感じさせます。小さいながらも凝縮した独特の空間性が感じられます。
 ウィーンの人々はこのバーを設計者にちなんでロース・バーとも呼びます。設計者アドルフ・ロースは1870年12月10日チェコのブリュン(ブルノ)に生まれます。父親は石工職人で、幼児期〜少年期を通じて、あらゆる職人の手仕事の精神を学びます。
 ドレスデン工科大学で三年間建築を学んだあと、1893年アメリカに住んでいた叔父を頼って旅行します。ロースはこの旅行を通じて新興国アメリカが持つ合理性、過去に縛られない自由な空気を感じるのです。それは因習と伝統が支配するウィーンの工芸や建築のあり方に疑問を持つことでした。そして、装飾によって隠蔽された近代の精神を摘出する言葉「装飾は罪悪である」というテーマの論文を発表し、論争を巻き起こします。
 この言葉は装飾によって隠蔽された欺瞞性を指摘したものであって、装飾そのものを否定したワケではないのですが、意味もなく装飾を好んでいた当時の保守的なアカデミーからは猛反発を受け、公私に渡ってさまざまな妨害に会います。しかし、デザインすることを決してあきらめず、今日でも古びることのないシンプルで素材感を重視した作品を数多く残しています。
 ロースのデザインした、底面のカットが美しく光を反射するタンブラーは建築家御用達の逸品で現在も生産・販売されており、亡くなった宮脇檀氏や活躍中の磯崎新氏も愛用されています。
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