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 近代のモダンデザインはヨーロッパ各国で同時多発的に起きていた工芸運動を母体にしています。1920年代以降、貴族や権力者に奉仕していたデザインが市民に開放されたのです。そのシンボル的な学校がバウハウスです。
 国立のデザイン学校バウハウスは1919年ドイツのワイマールに造られました。ワイマールは第一次世界大戦に敗れ、新生ドイツとして生まれ変わったドイツ共和国連邦の首都でした。初代の校長は「ファグス靴工場」「ファブリーク」(オフィスビル)でガラスの導入や陸屋根のデザインでモダンデザインの祖とも言われるワルター・グロピウスです。
 1926年にはデッサウに新校舎が完成し、本体が移動します。右の写真は世界遺産に指定されているデッサウのバウハウス建築群です。グロピウスは学校の運営に当たり、モダンデザインの教育施設であるにもかかわらず、教室を「工房」、教授を「親方」と呼ばせていました。あたかも工芸運動への先祖返りのようですが、モダンデザインの行く末を知るグロピウスの英知とも言えます。「ファグス靴工場」の設計などを通じて工業技術とアートの双方を知ったグロピウスは手仕事の重要さを認識したと考えられます。
 校舎から数分の場所には多くの教員住宅が建てられました。この教員住宅は単なる居住施設ではなく、「親方」たちの仕事場でもあったため、多くはアトリエ風の造りになっています。例えば「親方」であったパウル・クレーやワシリー・カンジンスキーの住まいもこの中にありました。学生達はきままに「親方」のアトリエを訪ね、仕事ぶりを見て学ぶことができたのです。
 ある自動車メーカー設計部門の話ですが、一時は新卒で研修が終われば直ぐにCADを使って設計を行わせていました。CADはどんな曲線でも形態でも簡単に造ることができます。しかし、彼らが造る造形には現実感が乏しかったのです。そこで、新卒も入社してから4年間は粘土で造形することを義務づけてからは突飛な造形が出なくなったと聞きました。グロピウスは早くもそのことを知っていたのだと思います。
ヴィトレースク
 1900年代初頭、北欧諸国では巨匠と呼ばれる建築家を多く輩出しました。デンマークのヤコブセン、スエーデンのアスプルンド、フィンランドのアールトやサーリネン父子などです。中でも異彩を放っているのがサーリネン父子ではないでしょうか。父親はエリエル・サーリネン(1873-1950)、息子がエーロ・サーリネン(1910-1961)です。父親はヘルシンキ中央駅の設計で、息子は米国ケネディ空港TWAターミナルやGM技術センターの設計で、それぞれ名を馳せました。
 フィンランドは650年もの間、隣国スウェーデンに領有され、その後は1917年にロシア革命が起きるまでロシア帝国の支配下に置かれました。1800年代が終わろうとする頃、ロシア帝国支配下のフィンランドで抵抗運動の一つとして民族主義運動が起こります。その引き金となったのが地方の一医師エリアス・ロンレットが民謡を編纂した叙事詩「カレワラ」です。画家カレッラは「カレワラ」に基づく民族の自覚を絵画で訴え、この運動はナショナル・ロマンティズム運動と呼ばれました。
 ヘルシンキ工科大学を卒業したばかりのエリエルはカレッラの影響を強く受け、これを建築の設計に反映したナショナル・ロマンティシズム様式を確立させます。
 しかし、その様式は当時ヨーロッパで同時多発的に起きていた工芸運動の影響を強く受けたものでした。ドイツではユーゲントシュティール、英国ではアーツ&クラフツ、オーストリアではセセッシオン、イタリアではスティル・リベルテ、スペインではエル・モデルニスメ、フランスではアール・ヌーヴォーと呼ばれたものです。
 民族の自覚に燃え、新しい建築様式を求めるエリエルはヘルシンキ西方のオランド島ヴィトレスク湖畔にカレリア地方の民家を模したアトリエを建築したのです。このアトリエはナショナル・ロマンティシズム様式そのもので、外観は民家を装っていますが、内部は民族色を取り入れた工芸運動スタイルです。複雑な間取りと随所に見られる、工芸運動スタイルの美しいデザインはヘルシンキ中央駅で集大成されるエリエルデザインの出発点と言えます。Hvitträsk, Kirkkonummi Finland
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 最近、日本でも人気の高いアルフォンス・ミュシャは1860年チェコの南部、モラビア地方イヴァンチッツェに裁判所廷吏の息子として生まれました。同時期、モラビア地方にはアドルフ・ロースやヨーゼフ・ホフマン、グスタフ・クリムトなどが生まれています。ブルノの中学校に進みますが、この時聖歌隊に入り、宗教的な教養を身につけ、後の宗教画に影響を与えたと言われています。
 中学校卒業後、ウィーンに出て舞台美術工房で働きながらデッサンを学びますが、リンク劇場の火災で職を失い一旦チェコへ戻ります。ミュシャの卓越したデッサン力を見た、地元の伯爵クーエン・ペランは資金を援助してミュシャをミュンヘンの美術アカデミーに進学させます。美術アカデミーで4年間学んだ後にパリに出たミュシャは、雑誌のさし絵、ポスター、カレンダーなどを制作して糊口をしのぎますが、女優サラ・ベルナールのポスター「ジスモンダ」を制作し大評判になったことで、一定の地位を得ました。
 その後は、ロートレックと一緒にサロンへ出品したり、パリ万国博覧会の意匠を担当したりと、華やかな活動が続き、レジオン・ドヌール勲章を得るまでに成功しました。
 こうした活躍のイメージが強いためか、ミュシャはグラフィックデザイナーとして認識されていますが建築のデザインでも優れた業績を残しています。その現物の一つがパリのカルナヴァレ美術館にあります。正式名カルナヴァレ・パリ歴史美術館は、数あるパリの美術館の中でもチョット変わった美術館で、20世紀初頭にパリを花の都たらしめた文物、絵画、写真などが多数所蔵されています。
 この、カルナヴァレ美術館の奥にひっそりと、ミュシャのデザインしたジョルジュ・フーケ宝石店が原寸移築されています。フーケは1901年コンコルド広場とマドレーヌ寺院を結ぶロワイヤル通りに店舗を構える際にミュシャにデザインを頼みました。しかしながら、店舗経営は上手くいかず、1923年には取り壊されましたがフーケは部材を保存しており、1938年に全ての部材がカルナヴァレ美術館に寄贈されました。
 この空間はまさしくミュシャの三次元空間で、至るところがミュシャの意匠で飾られています。三葉虫のようなガラスケース、アラベスクな床タイル、凝った鋳物部品など見飽きることがありません。後にデザインして、大成功を納めたプラハ市民会館の原点がここにあります。
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 岩崎小禰太が冬の別荘として建築した「熱海陽和洞」は、箱根外輪山から連なる山並が相模湾に急傾斜で落ち込む寸前の丘陵上に位置しており、地元では「岩崎さんのお屋敷」と呼んでいます。
 門を入ると急傾斜の道が新幹線や東海道本線をかわすように曲折し、四百メートル程進むと鬱蒼たる竹林に至ります。約四千本の孟宗竹が植えられていますが、仰ぎ見る急斜面の竹林には京都や越前辺りでも見ることができないほどの雄渾さが感じられます。
 竹林に埋もれそうなトンネルを抜けると、異形ともいえる屋根意匠が目前に展開し、初めて訪れる者を驚かせます。時代を経た瀬戸釉薬瓦が放つ鈍い光、葺き下ろしてきた主屋の屋根は一階車寄せ屋根と一体化され独特の形態感で迫ってきます。
 建物は一見積石造に見えますが、実際は鉄筋コンクリート構造。裾廻りは躯体の上に真鶴産六ヶ村石を貼り巡らし二階外壁は木目を浮き立たせた特殊型枠コンクリートによる化粧構造材で飾られています。この木目仕上コンクリートは一階ホール天井などにも多用されていますが、遠目には時代を経た良質の木材と見分け難いほどの精巧さです。
 また、小禰太の本質を求める気風に応じ、例えば浴室扉や照明器具カバーの硝子類はドイツからの輸入品が使われています。この硝子類や壁紙、個室の家具意匠などはすべてアール・デコ調で統一されていますが、主寝室や客用寝室・前室のデコ風壁紙は驚くばかりの美しさを今に保っています。
 浴槽はイタリア産紅花崗岩の一枚板をくり抜いた深さ70cm・直径約2mの楕円型。加水による温泉有効成分の希釈を避けるため、源泉から汲み上げた高温湯をラジエーターで適温まで冷却し、浴槽底部から泉のように湧きあがらせる仕掛けが組み込まれています。
 インテリアは中心軸や部材の整合性を崩した複雑な割り付けが随所に見られます。崩し方が微妙過ぎて、余り効果を上げてはいませんが空間に多様性を与えるのに巧みであった中條精一郎(曾禰中條建築事務所)らしい設計と言えます。
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 ロマネスクという言葉はそれほど古いものではありません。ロマネスクの建築そのものは10世紀から12世紀に造られましたが、それらを包括的にあらわすロマネスクという言葉は1900年代になってから使われるようになったのです。つまり、1900年代になってから様式として認められたということです。
 ロマネスクの建築は、端正なギリシャ・ローマ建築とロマネスク以降、華麗に花咲いたゴシック建築の間に存在する奇妙な様式です。
 ロマネスク様式は修道院・聖堂・教会に多く見ることができます。当時のヨーロッパ社会は農業の発達によって余剰生産物を得るようになり、人口が増大し、市民も巡礼などにでかけるようになります。
 こうした巡礼路に多くのロマネスク聖堂や寺院が残っています。有名なサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼に向かうヨーロッパ各巡礼路にも多くのロマネスク建築が残っています。
 ロマネスク建築の特徴は民俗信仰と結びついた柱頭飾りやタンパン(入り口上部の飾り板)彫刻、外壁のロンバルディア帯飾りにあります。奇っ怪な、時にはユーモラスなそれらの彫刻や飾りは円空仏のように荒削りの面白さがあります。また、巡礼路教会には巡礼者のアトラクションとなるべき聖なる遺骨や遺品がおかれたクリュプタ(地下礼拝堂)という興味深い空間もあります。
 ロマネスク建築はその建築素材をすべて地元で採れるものに限っているため、砂岩が採れる地域では砂岩が、花崗岩が採れる地域では花崗岩が、石が採れない地域では煉瓦などが使われ、はっきりとした地域性を持っています。ゴシック教会などでは権力にものを言わせ遠くから大理石や高価な建材を取り寄せ使用したのとは大きく異なっています。
 山間僻地に多い、地元信仰と結びついたロマネスクの建築を訪ねるのは容易ではありませんが、建築好きの方には是非訪れて頂きたいものです。
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 ヴィトリーヌとはウィンドウディスプレイのことです。北部ヨーロッパは冬が長く、暗い日々が多いため散歩の愉しみはお店が趣向を凝らしたヴィトリーヌを見て歩くという人も少なくありません。お店の側はクリスマスから1月後半に入って行うバーゲンセールへの効果を狙って年末年始のヴィトリーヌは特に力が入ります。パリのフォーブルドサントノーレ通りは有名ブランドショップが軒を連ねている所ですが、毎冬ごとに質の高いヴィトリーヌを見ることができます。2005年1月時点、シャネルはマリンブルーをテーマカラーにした船旅のイメージです。
 いっぽう、向かい側のエルメスは非常に芸術性の高いヴィトリーヌです。8つほどのコーナーは各々に大きなイブ・クレールの絵を背景に使い、色遣いや絵のテーマに合わせて商品が展示されることによってテイストの異なるイメージを提示しています。
 この背景の絵を描いたイブ・クレールは1947年生まれで、最初は写真の勉強を始めたのですが、20歳過ぎからは絵の勉強を行いながら医学の勉強も同時に行い、最初のイラストは医学雑誌に掲載されました。その後有名な週刊情報誌「パリスコープ」や「Autrement」誌等に多くのイラストを発表しながら大学に進み、34歳の時にパリ第7大学を卒業しました。ルネッサンス絵画のような絵の質感とマタドール(闘牛士)の帽子を膨らませたような人物像は独特の絵画的世界を持ち、フランス国内のみならずロシア、メキシコ等でも展覧会が開催されています。
 お店のショーウィンドウという小さな空間に、そのお店の商品コンセプトと美しさ、楽しさを盛り込む事にかけて、フランス人には一日の長があるようです。シャネルやエルメスのような世界的なブランドではない小さなお店でも、ユーモアや楽しさ、ウィットのあるヴィトリーヌを多く目にすることができます。
 また、模様替えも比較的短いサイクルで行われ、店員さんが狭いウィンドウに挟まれ、もがいているというような、別の意味でユーモラスなヴィトリーヌも目にすることがあります。
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