Browsing EYE 4
Stacks Image 1900
 ロバート・オーエンは1771年ウェールズに馬具商の息子として生まれました。長じてマンチェスターで紡績工場を営むようになりますが、当時の紡績工場で働く人々は最下層の大人や子供たち、それも多くの孤児が労働を支えていました。しかも、埃や繊維屑が舞う環境で長時間働く子供たちは肺結核などにかかり、多くの病死者も出ていました。そのような状況を見てオーエンは環境の改革を夢見るようになります。源をラスキンに持つ、アーツ&クラフツ運動が一種の社会改革またはデザイン革命であったように、当時の英国社会では大胆な「改革・革命」に憧れる人は少なくありませんでした。オーエンもその一人で、どのような子供でもその成育環境が良ければ、善良で優秀な人材になり得ると考えるようになります。
 仕事でグラスゴーを訪問していたオーエンはデイルという娘と知り合い、恋に落ちます。デイルはニューラナークで紡績工場を経営するデビッド・デイルの娘で、二人は結婚しオーエンは入り婿として紡績工場の経営に携わるようになります。この辺りは、少しできすぎたお話のような気もしますが、オーエンは革命を心に抱いた野心家だったのかも知れません。
 1800年になると紡績工場の経営を全面的に引き受けるようになり、オーエンの革命が始まります。まず、工場に幼児のための学校を併設します。この学校を「性格形成学院」と名付け、幼児の教育に力を入れ、就学前の子供が工場で働くことを禁止しました。夜学を含む、就学児のための学校も設け、読み書きや算術はもちろん音楽や芸術に関する教育も行いました。また、医療が無料で受けられる病院や協同組合(生協)のような店舗なども建設します。これらの実践には多大な費用が必要ですが「事業で得た利益は労働者に還元すべき」という理念のもと、ニューラナークの村は一種のユートピアになっていきます。オーエンはその後、社会運動に情熱を注ぎますが、アメリカに広大な土地を購入して共同体を造ろうとして失敗。エンゲルスからは「空想社会主義者」と評されました。
 この200年前のユートピアが現在もそのままに残っているのが、ニューラナークの村です。エジンバラから車で南に1時間ほど走ると、谷間を流れるクライド河の支流を挟むように紡績工場が望見できる丘の上に到達します。やや無表情な建築物は周囲で採れる白っぽい砂岩で造られており、世界遺産に指定されている一群の建築物は旧ソ連の労働者アパートを少しだけ感じさせます。
Stacks Image 1901
 プラハの中心を流れるブルタヴァ川にかかるカレル橋から上流に遡ると、二つ目にイラーセク橋があります。この橋のたもとにダンシングビル(踊る建築)が建っています。
 プラハは奇跡的に戦争による大規模な破壊を免れ、バロック、ロココからキュビズム、現代建築に至るまで、数多くの建築スタイルが存在する希有な都市で、建築の宝庫ともいわれます。中でも異彩を放っているのがこのダンシングビルではないでしょうか。正式名はナショナル・ネーデルナンデン・ビルと言い、フランク・O・ゲーリーと地元建築家ウラジミール・ミルニックによって設計され、1996年に完成しました。まるで、男女がダンスをしているように見えることからダンシングビルと呼ばれているのです。
 フランク・O・ゲーリーは1929年カナダのトロントに生まれ南カリフォルニア大学で建築、ハーバード大学で都市計画を学んだ後、1962年からロサンゼルスに拠点を置き設計活動を行っています。
 建築デザインの分野ではこのダンシングビルのような方向のデザインをディコンストラクティヴィズム(脱構築主義)と呼びます。ディコンストラクティヴィズムとは幾何学的に完結的な形態を廃し、斜線やひし形、曲線、鋭角的な形態を持ち込んでデザインすることによって、エネルギッシュで断片的、未完成で未来的なイメージを作り出すデザインです。ダニエル・リベンスキンドやレム・コールハースなどが脱構築主義の旗手といわれていますが、ゲーリーは1979年に設計した自邸で、工業製品の導入や未完成な形態を用い、早くも脱構築主義の片鱗を見せていることから、その始祖といわれています。
 ゲーリーのこうしたデザイン感覚は、広重や北斎などの浮世絵や京都の寺院などから大きな影響を受けたと自ら述べています。また、鯉の形態感を造形のルーツに持っているようですが、これは子供の時に、安息日の食卓を飾るための鯉がバスタブで泳いでいるのを見た記憶が鮮明に残っているからだそうです。
 そういえばこのダンシングビル、鯉のぼりが空に昇るように見えなくもありません。
Stacks Image 1902
 アルネ・ヤコブセンは1902年コペンハーゲンの裕福なユダヤ系の家庭に生まれました。青年時代、人生の選択を行うとき最初は画家を目指しましたが、総合芸術としての建築の面白さに目覚め、22歳でデンマーク王立アカデミー建築科に進みます。
 時代はセセッションなどの運動が終焉を迎え、バウハウスを中心としたインターナショナルスタイルへの移行時期です。ワルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエなどが活躍を始め「産業デザイン」という言葉が生まれていました。
 セセッションやアール・ヌーヴォーの運動は工業生産と対立する考え方でしたがバウハウスのデザインは工業力を活かしながら、シンプルでモダンなデザインを追求しているのが特徴です。若いヤコブセンは自らの感性とも合致するバウハウスの影響を大きく受け、伝統的なハンディクラフトと産業デザインの融合を考えアントチェア、セブンチェアを始め数々の傑作家具デザインを生み出していきました。
 ヤコブセンは中学生の時、自室のクラシックなインテリアが気に入らずペンキで真っ白に塗ってしまったという逸話が示すように、細部に至るまで空間とモノの関係を追求する姿勢は終生変わらず、家具を始め食器から時計、照明器具、建築、地域開発まで手がけています。
 コペンハーゲンから電車で30分ほど北上したKlampenborgという駅の近くにベルビューという海岸があります。東京で言うと江ノ島のような感じの明るいリゾート地です。ヤコブセンはこの海岸地域の開発を手がけ1934年から1937年にかけて集合住宅、映画館、海水浴場施設などを設計しています。一時は荒れ果てていた建物は近年レストレーションが積極的に行われ、設計当時の美しい姿を見ることができます。
 ベラヴィスタ集合住宅や劇場のデザインやディテールは今日見ても決して古びた印象は無く、逆にこの70年という時間の経過の中で建築家は何をしてきたのかと問いかけられるようです。
Stacks Image 1903
 今から約110年ほど前に活躍した建築家C.R.マッキントッシュはスコットランドの天候や環境への工夫を盛り込んだ「スコティッシュバロニアル」スタイルを生み出しました。
 バロニアルとは地方の材料、風土、工法、生活に根ざした「誠実さ」に基づく伝統的な建築様式という意味です。マッキントッシュのバロニアルスタイルには外壁のラフキャスト、L型プラン、急勾配の屋根などが特徴的に用いられています。
 ラフキャストとはコンクリートの粗い吹き付け外壁で、雨に強く表面が粗面なので雨だれによる汚れが発生しません。L型のプランは強い風から住まいを守る形態で、背中を丸めて北風に耐えるようなイメージです。そして急勾配の屋根は横殴りの雨に対しても排水性が優れ、雨漏りが起きにくいのです。ヒルハウスやウィンディヒルなど住宅建築の傑作は実はスコットランドの自然環境から導き出されたものだったのです。
 1896年、マッキントッシュはグラスゴー美術学校のコンペ用図面を完成させ、提出しています。このコンペに成功したマッキントッシュは以降、30年間にヒルハウス、ウィンディヒルなどの住宅、スコットランドストリート・スクール、クーインズクロス教会などの傑作を完成させていきます。マッキントッシュは当初ウィリアム・モリスやジョン・ラスキンの影響を受けますが後にスコティッシュバロニアルスタイルを確立させ、近代建築に大きな影響を与えたました。マッキントッシュは英国よりも、ウィーンのセセッショニストたるヨーゼフ・ホフマンやJ.M.オルブリッヒ等によって高く評価され世界に広く紹介されます。しかし、グラスゴーという造船都市の没落はマッキントッシュに仕事の機会を多くは与えず、寡作な建築家として失意の生涯を終えます。
 彼の死後、建築デザインの流れはバウハウスからインターナショナルスタイルへと移行しますが、1970年代に入ってからマッキントッシュの手仕事、地域性を重視する手法に対する再評価の気運が高まり、近年世界各地でマッキントッシュに関するイベントが行われています。
Stacks Image 1904
 マチルダの丘はフランクフルトの東南約50Km、ダルムシュタットの街にあります。この丘一帯は「クンストラー・コロニー(芸術家の村)」と呼ばれ、多くのユーゲントシュティール建築が点在しています。その、中心となるのが「結婚記念塔」と命名された、5本の指を揃えて空に向けたようなデザインの建築です。
 この結婚記念塔は時の支配者ヘッセン候エルンスト・ルードイッヒの結婚を記念して建てられたものです。ルードイッヒは英国ビクトリア女王の孫に当たる血縁を持ち、英国の工芸や建築に大いなる興味を持っていました。
 当時の英国ではウィリアム・モリスを中心とした「アーツ・アンド・クラフツ」運動が始まっており、手仕事を重視した工芸や印刷物(書籍)、家具、食器などが盛んに造られていたのです。これに触発されたルードイッヒはダルムシュタットに古くからある家具産業が機械化の波に押し流され、絶えようとしているのを救うため、有能な建築家やデザイナーを集めたコロニー建設を思い立ったのです。
 第一期には工芸家、美術家、建築家が7名集められ、その責任者となって活躍したのが建築家J.M.オルブリッヒです。オルブリッヒはクリムトやシーレ、ホフマンらと共に興したウィーン分離派運動の立役者で「分離派会館」(1898)の設計で既に一定の地歩を得ていました。高額な給料とプロフェッサーと名乗ることを許すという条件で、オルブリッヒはウィーン分離派を捨てダルムシュタットに移り住みました。
 ダルムシュタットでのオルブリッヒの活躍はめざましく、移住した翌年の1901年までに住宅6戸、共同アトリエ、ルードイッヒハウスなどを完成させ、家具、食器、衣装、建築を含む総合的な展覧会まで開催しています。展覧会は引き続き04年、08年にも行われました。
 結婚記念塔は1908年の展覧会に合わせ完成しますが、ダルムシュタットでのオルブリッヒ自身は嫉妬とやっかみによる、言われ無き誹謗中傷を受け続け、それが原因かどうかは判りませんが、同年41歳の若さで没してしまいます。
 しかし、このマチルダの丘に芽生えた近代デザインの精神はワイマールのバウハウス運動へと発展して行ったのです。
Stacks Image 1905
 フォントネー修道院はフランス、ディジョンの北東にある世界遺産に指定されているロマネスク建築の修道院です。キリスト教における修道院は東方正教会などが形作ったものといわれています。修道院という建物が最初からあったのではなく、荒野や砂漠の洞窟で謹厳な生活を営みながら宗教的な思索を巡らす隠修士たちのために共同生活の場を与える施設として、東方正教会などによって修道院が造られたのです。
 7世紀頃になると修道院はヨーロッパ全体に広まりますが、謹厳な思索の場であると同時に、幼児の教育、施療などを行う世俗的な施設を併せ持つようになります。また、祭礼に用いるワインを製造するためにワイン畑を持ち醸造技術の研究も行います。さらに、農作物の品種改良なども行い、農民などに伝える機能も持つようになります。パンの焼き方から農機具の改良、薬草の研究など生活に関するあらゆる研究と改良をおこなったのです。我々は仏教の修行僧とキリスト教の修道士を重ねてしまい、精神面だけで修道士を見てしまいますが、修道院はもう少し世俗的な、中世に於けるシンクタンク的な位置づけだったのです。
 10世紀になると修道院は民衆の信仰を背景にさらに力を持ち、領主から徴税権、開墾権などを与えられるようになり、修道院は一種の独立自治体的な性格を帯びます。また、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼が盛んになり、巡礼者への飲食や宿泊場所の提供、病気になった者への施療、盗賊から巡礼者を守るための警護などを行うようになります。これによって修道院は多額の収益を上げるのですが、同時に世俗的な華美贅沢を求める堕落も始まり、精神性の希薄な利益追求機構になってしまいます。
 12世紀になると修道院の堕落に異を唱え原点回帰を願い、精神性を重んずる宗派であるシトー派が台頭してきます。シトー派は人跡まれな山奥に修道院の敷地を求め、土地を開墾して精神修養と生活の場を得ます。その総本山がフォントネー修道院なのです。
 川を巧みに利用した水力機械による製粉、金属製品のための鍛冶場、雨水を利用するための貯水池、修道士が寝泊まりする砂をまいた床に藁を敷いただけの粗末な宿泊棟など、ここには修道院の原点を見ることができます。
建築設計・家具デザイン&製作・インテリアデザインのご相談は→info@kukan-kozo.net