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 レヒネル・エデン(Lechner Odon)は前世紀末のブダペストに生まれた建築家です。当時のハンガリーはオーストリアとの二重帝国を形成し、ヨーロッパ全域を支配していたハプスブルグ家と密接な関係を保っていたため、首都ブダペストには東と西の富と文化が集中していました。こうした環境で育ったエデンはブダペストの工業学校で学んだ後、ベルリンの建築アカデミー(現在の大学的な教育機関)に入学し、2年間に渡って当時の最も新しい建築教育を受けます。
 帰国の途中パリに滞在してヨーロッパの新しい建築運動の息吹にも触れます。ハンガリーに帰国した後、友人と設計事務所を開きますが仕事には恵まれず、6年後再びパリに赴き、建築家クレマン・パランの設計事務所で働きます。
 ちょうどその頃ヨーロッパ各地では工芸運動が盛んになり、さまざまな国の手仕事や民族の持っている造形が評価される潮流が起きます。これは、それまでの支配階級に奉仕していた造形が近代的な市民意識の台頭と共に衰退し、市民の生活に根ざした造形が主張しはじめる時代の幕開けでもあったのです。
 その代表的な運動が英国のアーツ&クラフトです。エデンもこの工芸運動に大きな影響を受け、ハンガリー(マジャール)独特の造形を採り入れた設計を行います。地方の公共建築を手がけて成功したエデンはマジャール工芸運動の記念碑的な建築である「装飾美術館」の設計コンペに応募します。紆余曲折はありましたがエデンは実施の仕事を勝ち取りハンガリー建築界にステイタスを確立させます。
 独特の曲線を多用したデザインは建築の構造とは無関係に装飾的で、後の禁欲的な機能主義から発展した現代建築には結びつきませんが、強烈で個性的デザインはエデン様式という独特の世界をつくり出しています。「西のガウディ」に対し余りにも知られていないのが「東のエデン」なのです。
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 イタリアのヴェネチアは運河で有名な観光都市ですが、似たような発音のヴィツェンツァと言う街があります。ヴェネチアから内陸に30kmほど入った場所にある、一般的には宝飾加工で知られた街です。日本のテレビショッピングで扱われている「お買い得!イタリア製金細工のチェーンが付いたペンダント」などの多くはヴィツェンツァで造られたものです。
 ヴィツェンツァ(旧市街)は南北約2kmしかない小さな地方の街ですが、欧米の建築を志す者は必ず訪れなければならないほど重要な街なのです。それはアンドレア・パラディオがこの街と周辺に数多くの作品を残しているからです。
 日本では建築教育の仕組みによる影響もあって、パラディオについてそれほど知られていません。専門の教育を受けた建築家ですらパラディオの名前を知らない人は沢山いますが、欧米におけるパラディオ作品の意味は我々の桂離宮と同じほど重要なのです。
 パラディオは1508年にヴィツェンツァに生まれた後期ルネッサンスの建築家で、古代ローマの建築や遺跡・古典建築に関する文書を研究し、その研究から導き出された端正厳格な古典的装いを以て数多くの作品をヴィツェンツァとその近郊及びヴェネチアに残しています。中でも有名な作品はヴィツェンツァのバシリカ(市庁舎)、ロトンダ(別荘)、テアトロオリンピコ(劇場)、ヴィラ・バルバロ(別荘)などです。
 いずれも古典的な装いを見せてはいますが、それらが古典建築と決定的に異なるのは近代的な思考によって裏打ちされている点です。現在の我々が合理的、機能的、目的的と考える建築的な出発点を持っているのがパラディオ作品の大きな特徴です。そして、こうしたパラディオが思考した要素は近代建築に大きな影響を与え、その源流となっていることが欧米で高く評価されている理由なのです。
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 モンテカティーニはイタリアのフランス寄りにある高級リゾート地の名前です。そしてここは、マルチェロ・マストロヤンニが主演し、「シベリアの理髪師」で有名なニキータ・ミハルコフが監督した小粋な映画「黒い瞳」の舞台になった街です。
 この映画はチエホフの「仔犬を連れた奥さん」をベースにしたもので、お約束通り浮気者のマストロヤンニが湯治に来ていたロシア人の若い人妻と恋愛ゲームをするのですが、最初はゲームのつもりだったマストロヤンニはすっかり若い人妻に惚れ込んでしまい、帰国した人妻を追いかけ、お金持ちの妻を捨ててロシアのサンクトペテルスグルグまで行ってしまいます。結局は人妻に振られ、零落して観光船のボーイになっているところから映画は始まります。そして、気のあった初老の船客にそれまでの経緯を話すという設定で映画は進行します。
 それはともかくモンテカティーニの街では高級リゾート地にありがちな映画的場面に遭遇します。街随一の最高級ホテルLa Paceのプールサイド。男性誌のグラビアページから抜け出たような若い美女がホントに危ない水着でデッキチェアに寝そべり、その脇では派手なシャツを着た実業家風ちょい悪オヤジとそのオヤジの男性秘書が、忙しくそれぞれの携帯電話で何やら話しています。電話の合間にオヤジは美女とキス、また携帯電話・・・美女は「も、バカみた〜い」という冷たい視線でオヤジと秘書を見ています。このオヤジと美女はここ数日同じようなシーンを繰り返していますが、オヤジはホテルに泊まっている様子はないのです。というのも、美女は夜になると胸も露なソワレでメインダイニングに現れ、仕事そっちのけで彼女に大サービスをしつつ、ちょっかいを出そうとするボーイ達をあしらいながら、一人で不機嫌そうに食事をしているからです。
 ある夕方、モンテカルロのナンバーを付けたスポーツタイプのジャガーが凄い勢いで駐車場を出ていきました。運転しているのは例のオヤジ、隣に秘書君。おそらく自宅のあるモナコまで150Kmの道をとって返し、遅い夕食に間に合わせようという魂胆なのでしょう。
 このオヤジを見ているとさまざまな、プロットが考えられます。もしかしたら「黒い瞳」現代版かも知れませんし、笑える「ロメオとジュリエット」かも知れません。ともかく、こうした観察する楽しみを与えてくれるのが本当の高級リゾート空間の要件ではないか。そんな、気がしてくる街がモンテカティーニです。
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 1792年4月フランス革命政府はオーストリアに宣戦布告します。オーストリアはロシア、英国と同盟して戦いますがフランス軍に敗れ、ナポレオンが1805年11月にウィーンへ入城します。一旦はウィーンから逃れたフランツ2世はロシアと共に反撃を試みますが、再び敗れ屈辱的な和平を強いられます。そして1809年、再々フランスに戦いを挑みますが、これにも敗れてしまいます。
 この後始末に活躍したのがメッテルニッヒ侯爵です。メッテルニッヒは融和策として、ナポレオンをハプスブルグ家の姻戚に加えようと画策し、成功します。ナポレオンの前妻ジョセフィーヌは離婚され、フランツ1世の皇女マリー・ルイーズがナポレオンの妃になりますが、その後のナポレオンは全くツキが落ち作戦の失敗続きで最後はエルバ島へ流されてしまいます。機を見るに敏なメッテルニッヒは、ナポレオンの蹂躙にあった諸国に、ウィーンで戦後処理会議を開くことを提案し、かの「会議は進まず されど会議は踊る」という言葉で有名なウィーン円卓会議が開かれます。会議は半年以上も延々と続くのですが、ナポレオンのエルバ島脱出の報を聞いた途端、諸国は急遽妥協し、会議は終結します。この結果、メッテルニッヒの思惑どおり、オーストリアはベルギーとルクセンブルグを放棄する代わりに、ヴェネチア、ロンバルディアを得るのです。
 ウィーン円卓会議から30年の間、フランスとの確執も治まったことからウィーンは繁栄と安定を謳歌します。経済力を持ったブルジョワジー層が台頭してきて労働者階級と貴族の間に新たな知的市民層を形成します。この知的市民層が好んだスタイルを「ビーダーマイヤー様式」といいます。ビーダーマイヤー(善良なマイヤー氏)とは当時もてはやされた漫画の主人公の名前です。ビーダーマイヤー様式はシンプルな形態の中にさりげなく装飾が施され、歴史主義や古典の模倣ではなく現実感覚に根ざしたスタイルで、今日言うところのモダンデザインの始まりだったのです。
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 建築家にとって窓や開口部というのは実に魅力的な部位です。最近のように敷地が狭隘化し、建築の「遠景」が得られず、もっぱら中景と近景のデザインをせざるを得ない場合には窓デザインが外観意匠の決め手ともなります。
 伝統的な日本建築には「窓」という感覚が乏しいと言われています。柱や梁という「線材」で組み立てられる空間には西欧建築的な「壁」という概念が希薄なわけです。むしろ日本的な空間の美しさは「影の量」にあります。例えば水に映る水草のにじんだような影から、五重塔や大仏殿軒裏の圧倒的なボリュームで迫る影に至るまで、影の濃淡を理解し、それ味わう「影をコントロールする文化」が日本の視覚・感覚史に流れているように思います。
 ここで西欧建築の窓にまつわる、外敵や厳しい気候についての論を繰り返す必要はないと思いますが建築技術史的に見ても、一定の大きさの石や煉瓦の塊を積み上げて空間を構成する積石造では窓や開口部は技術的なネックでした。アーチ状木製型枠の上に石を並べていき、頂点に「要石」を打ち込む。恐るおそる型枠を外すと、見事に崩れ落ちることも稀ではなかったようです。
 こうした厳しい条件で与えられた外の「光」は窓そのものと、その周辺に独特の文化を生んでいきます。信仰と結びついたステンドグラスはその代表的なものですが、もっと一般的な建築物にも「光をコントロールする文化」が生んだ魅力的な窓が見出せます。
 外国旅行の場合、個人住宅の中まで入り込んで見学するチャンスはあまりありません。外から見える窓回りのデザインを楽しみ、微かに見えるインテリアからその全体を想像するわけで、窓を透して見える小さな照明やシャンデリア、窓に取りつけられたケースメントなどから生活のありようを想像するのもまた楽しみの一つです。
 窓のデザインに関しては、光を遮る必要がある南欧、光を欲する北欧、この二つが接する地域には変化に富んだデザインの窓が多く、中でもフランス、イタリアといったラテン系の国々では人々の豊かな表情そのままに、語りかけてくるような窓を数多く見ることができます。ガラスや金属という合理的で生産性の優れた材料に支えられたモダンデザインの建築は、量感だけを求め外観を無表情なものにしてしまいました。しかし、建築の固有性や表情の復権をめざす新しい建築デザインの運動が、フランス、イタリアなどの国々から起きているのは表情豊かな窓デザインと無縁ではないような気がします。
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 現在は東京都庭園美術館として利用されている朝香宮邸は1933年にアールデコ様式の住まいとして建築されました。ご当主の鳩彦氏は勤務先の陸軍大学校からフランスに派遣され軍事研究のためパリに滞在していましたが、1923年運悪くパリ郊外で交通事故に遭い長期の療養を余儀なくされます。夫人の充子内親王も渡仏し、看病に当たられました。お二人は1925年までパリに留まりますが、その際、後に一時代を画したと言われるアールデコ芸術の集大成「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」を見学し、深い感銘を受けられたようです。
 帰国してから、下賜された白金の敷地に住まいを建築するに当たり、フランスで感銘を受けたアールデコ様式で計画を進めることになります。1929年に計画を開始し、1933年に竣工を見ましたが、アールデコの精華を今に伝えるこの建物は、宮内省内匠寮の技師であった権堂要吉とフランス人装飾家アンリ・ラパンの協力によって生まれたものです。権堂は朝香宮とは別に、洋風建築を研究するためにフランスに派遣されており、アールデコ展には足繁く通ってデザインを習得していたようです。
 アンリ・ラパンはもともと画家でしたが1910年頃からは凝った家具をデザインしてサロンなどに出品するようになります。そして、1924年には国立セーブル製陶所と装飾美術学校の美術部長に就任し、アールデコ展でも多くのパビリオンを手がけました。ラパンは一度も来日することなく全てを権堂とのやり取りで、デザインを行い家具や絵画の制作を行っています。インターネットなど無い当時のことですから大変な労力を要したはずです。
 この建物のアールデコ様式は細部に至るまで統一されており、外観から、床、壁紙、家具、照明器具、水栓金物、建具金物、ラジエーターカバーに至るまで全てのテイストが破綻無くアールデコ様式で貫かれています。ラジエーターカバーなどは和の意匠も採り入れられていますが、もともとアールデコ様式そのものが日本の文物の影響を受けて生まれたものですから違和感はありません。
 ラリック工房製作の入り口のドア飾りや、大食堂の大きな照明器具はこのインテリアを特徴付けているものの一つで、一見の価値があります。
 通常、美術館として使われているため、細部を見る機会はありませんが、折に触れて、建物そのものを見せる展示も行われています。
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