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 ピーターラビットでお馴染みの英国北西部湖水地方にはアーツ&クラフツの建築がいくつか残っています。また、資料的に有名な建築以外にも、ごく普通にアーツ&クラフツの影響を受けた建物も少なくありません。ブラックウェル館はこのようなアーツ&クラフツ建築の中でも、その保存状態や設計の素晴らしさにおいて、湖水地方の白眉とも言える建物です。
 設計は当時33歳のベイリー・スコット(1865-1945)です。英国南西部ケント州の生家はオーストラリアに広大な牧羊地を持つ裕福な家庭で、スコット自身も家業を継ぐために農業高等学校に進学しますが、次第に建築に興味を抱くようになり、卒業後はパースにある建築事務所に見習いとして勤めます。
 当時の英国で最先端の仕事をしていたウィリアム・モリス、ノーマン・ショウ、フィリップ・ウェブなどの影響を受け、ジョン・ラスキンに源を発するアーツ&クラフツ運動に理解を深めます。1892年には新婚旅行で訪れたマン島(オートバイレースで有名)に自らの設計事務所を開設しました。
 また、人気雑誌であった「The Studio」に多くの設計案や構想を発表し、名前を知られるようになりました。ドイツのヘッセン候やルーマニアの皇女メアリーのためのインテリア設計でさらに知名度を高めたスコットのもとに、マンチェスター市長を務めたこともあるエドワード・ホルト卿から館の設計依頼が入ります。
 敷地のあるウィンダミア地方は(自然保護の面から大きな反対がありましたが)1847年に鉄道が開通し、都会に住む富裕層の別荘地として人気を高めていました。ウィンダミア湖は南北に細長い湖で、西側はピーターラビットの作者であるポターの住まいが丘の上にありますが、別荘は平地の多い湖の東側に建設されます。そして、一般的には西向き、すなわち湖に面して広い開口を設けるように設計されます。しかし、スコットは南向きに広い開口を設け、西側には小さな展望しか得られないように設計しました。その西向きの部屋はこのブラックウェル館でも最高の部屋で「白い客間」と呼ばれています。写真「西側庭園より」の左下に見える小さな出窓がその場所です。
 「白い客間」のインテリアは白一色で、凝った造りの白い石膏細工がインテリアにアクセントを付け、出窓部分は真っ白な素材で造られた半円形のソファになっています。エントランス回りの重厚で木材を多用したアーツ&クラフツ調のインテリアに比べ、この「白い客間」はまるで宙に浮いているような軽やかさがあり、視界を絞った西向きの開口はウィンダミア湖を一層美しくピクチャレスクしています。
 この邸宅は、非常に入念にレストアされておりベイリー・スコット最上のデザインを味わうことができます。Bowness on Windermere Cumbria LA23 3JT
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 テムズ河の南側はバックサイドと呼ばれ、開発に取り残された工場や倉庫が乱雑に並ぶ治安の良くない地域でした。2000年を目標にこの地域の再開発が進められ、元火力発電所を改築して美術館に変身させたテート・モダンミュージアムを中心に、全く新しい現代建築が集中する地域に変貌しました。
 この地域は元々公共交通機関も未整備な地域であったため対岸のセントポール寺院側から橋を架けることが必要になったのですが、テムズ川を横切る橋は1884年のロンドン橋以来、一本も架けられていなかったのです。このため、計画は多くの抵抗にあい、実施は二転三転しますが、最終的にはノーマン・フォスターの設計による吊り橋が2000年6月に完成してお披露目されました。
 ところが、これがちょっとした欠陥構造で、多くの人が渡ったり横風が強いと激しく横に揺れたのです。開通3日目にして橋は閉鎖になり、2年経った2002年2月に補強工事を経て再度開通しました。現在も多少は横揺れしますが、これは吊り構造である以上やむを得ないのかも知れません。しかし、口の悪いロンドンっ子はこの橋をWobbling Bridge(ゆらゆら橋)と呼んでいます。
 ミレニアムブリッジの橋桁は8本のワイヤーとY字型橋脚2基によって支えられています。橋脚のY字は「優雅な剣、光の翼」を意味しているそうですが、いかにもスパン(橋脚間の距離)が長く、上部からの吊り構造でない以上、左右方向に相当大きくストラトス(補強部材)を張り出さないと横揺れが起きるように見受けられます。再開通後は、デッキの下部に大きな油圧ダンパーを装備して横揺れと縦揺れの軽減を図っています。
 ノーマン・フォスターは香港上海銀行本店(1986年)の設計で一躍に有名になった建築家で、生まれは1935年・マンチェスターです。イェール大学で学んだ後「宇宙船地球号」で有名なバッキー・フラーのもとで修行を行い、パリのポンピドーセンターの設計で有名なリチャード・ロジャースらと組んで「チーム4」を結成しハイテク志向・工業製品志向のデザインを行います。1967年には自らの事務所を開設。「建築は芸術と科学の融合」をテーマに、ベルリン国会議事堂改修、フランクフルトのコメルツ銀行、スイス・リ本社(通称「ガーキン」)などの作品を次々と発表しています。
 最近の話題作はフランス南部・ミヨーに設計した「世界一高い橋」で、地上343メートルに雲間を貫通するように造られています。ちなみに、橋脚は7本あり、上部からの吊り構造です。
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 コンバージョンとは転換するという意味で、野球などのコンバートと同じような意味合いです。コンバージョン住宅と言う言葉は日本でも最近聞かれますが、ある建物を用途転換して住宅や店舗にすることです。
 ウィーンのシュベヒャート空港から市内に向かう高速道路の左側に4連の丸い煉瓦建ての構造物がありました。この構造物は19世紀に築造されたガスタンクで、ウィーン市内にガスを供給していました。しかし、山国のオーストリアは20世紀に入ると水力発電が盛んになり、現在では他の国に電力を輸出するほどの電力生産国です。キッチン熱源の電化速度も速く、20世紀後半になるとガスタンクは無用の長物となっていたのです。
 ウィーン市はこの近代産業の遺構を取り壊すことなく保存するために、コンバージョン計画を進めました。住宅、ショッピングセンター、オフィス、劇場、レストランなどを含む一大複合施設を建築家Manfred WehdornやWilheim Holzbauerに依頼して建設したのです。完成は2001年、当初は劇場の屋根が落ちるなどの珍事もありましたが、現在では「ガソメーター」という愛称で市民に親しまれています。コンバージョン住宅の事例としては世界的にも有名な施設です。
 デザインは「木に竹を接ぐ」という言葉を思わせる、異物同士を組み合わせて双方を際だたせる手法です。斜めに曲がった建物が住居棟で、ガスタンク部分にはショッピングモールなど公共施設が入っています。スクラップ&ビルドの激しい我が国では古い建物を利用してコンバージョン化するよりも、新しい建物を建てた方が効率が良いという考え方が根強いため「ガソメーター」のような事例は難しいかも知れません。
 六本木や丸の内、汐留に続々と誕生している新オフィスビルの影響を受け、都心部で中小の貸しビルに空き室が急増していますが、それらをコンバージョン住宅にするなどの発想もあるようです。交通の便が良く公共施設も充実している都心が、新たな魅力を持つ居住地域として見直されるかも知れません。
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 日本の名水百選とか桜百景などなどと同じように、フランスには「美しい村」シリーズがあります。中でも「フランス一美しい村」として有名なのがペルージュ村です。ただし、「フランス一」は他にもサン・シル・ラポピーやリクヴィル、リポーヴィレなど沢山あって、どれが本当の「フランス一」かは判りません。それぞれ「フランス一美しい村」の一つと言ったところでしょうか。
 ペルージュ村はリヨンの東約40Kmの所にある中世の村です。村は歴史保存を徹底的に行い電線や電柱、テレビのアンテナ、看板などは一切見あたりません。道は舗装ではなく玉石を埋め込んだ石畳で、村のゲートを入ったとたん、中世にタイムスリップします。
 この村では中世を舞台にした映画やTVのロケが頻繁に行われ、特に映画「三銃士」のロケ地になったことで一躍有名な村になったようです。この村はローマ人によってその礎が築かれましたが、丘の上にあることから、リヨンへの「のろし台」として重要な場所でした。17世紀頃まで繁栄を続けましたが、近世になり産業構造が変化し始め、次第に村人は平地の街に移住していきます。19世紀になると人口減少はさらに進み、一時は1500人もいた村民はわずか8人になったそうです。そして村はそのまま、ゆっくりと朽ちていきながら20世紀を迎えます。
 20世紀初頭、美しい佇まいの村に対して文化人などが保存運動を起こします。映画の撮影などに使われたことから、次第に観光客も訪れるようになり、中世そのままの空間が保存再生され今日に至っています。
 村は石造りの住宅で囲まれた広場を中心に持ち、広場の外側に外周道路が巡っています。村そのものの規模は小さく、外周道路をゆっくり歩いて一周しても30分ほどです。
 中世そのものの石組みや建物の造形、小さな開口部などは一種の重苦しさを感じさせます。歩きにくい石畳の路地も舗装に慣れた現代人には苦痛です。しかし、本物の中世がそこにはあり、この無骨な重苦しさこそが中世の空間そのものなのです。
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 青森県弘前市には明治期から大正期に建築された多くの西洋館が残っています。西洋館が多数残っている理由は、地元の保存運動が功を奏していることもありますが、第二次大戦で空襲を免れ火災による焼失が無かったと言うことが大きな理由です。
 しかし、なぜこのように多くの西洋館が当時建てられたのでしょうか。それには二つの理由があると言われます。
 一つは明治期の早い段階から外国語教師を招聘して、語学教育を行ったと言うことです。東奥義塾では明治6年にアメリカ人教師を招いて英語教育を始めています。多くの来日した教師達は語学と一緒にキリスト教の布教も行ったため入信する人も多く、明治8年に弘前公会が設立され、明治19年には来徳女学校(現弘前学院)が開校しました。カソリック系、プロテスタント系は競って教会や教師宿舎を西洋館で建築したのです。
 もう一つの理由は明治28年、弘前に旧陸軍第八師団本部が設置され師団司令部や偕行社を西洋館で建築したからです。偕行社とは将官や将校などの親睦と軍事研究を行うためにつくられた団体で、旧陸軍省営繕組織の設計により、弘前を含め全国各地に偕行社の西洋館が建てられました。
 こうして現存する弘前の西洋館の多くは、堀江佐吉と言う棟梁が手がけています。堀江佐吉は祖父の代から津軽藩お抱え棟梁の家系で、子供の頃から当時の海外情報を伝える絵入り本「海外余話」などに見入り、西洋に対する興味を膨らませていました。開拓使の仕事で函館に渡り、現実に存在する教会や西洋館に触発され、独学で西洋建築をモノにしました。棟梁と言っても設計と施工を行う建築家のような存在だったのです。
 上写真の一番上はクリスチャンに改宗した棟梁桜庭大五郎が建築したものですが、右の二つは堀江佐吉が設計・施工した建物です。中でも旧第五十九銀行は佐吉の代表作と言われ、国の重要文化財にも指定されています。また、太宰治の生家である「斜陽館」も佐吉の手による和洋混交建築です。
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 1796年7月2日、ラインラント地方の小さな街ボッパルトにミヒャエル・トーネットは生まれました。父親は貧乏な革なめし職人でした。トーネットは父親の職業を嫌い、家具職人の道を選びます。家具職人として有能だったトーネットは23歳の時に独立し、自分の工房を持ちます。当時の社会は商人や市民階級が富と力を持ち始めた段階で、従来のように貴族や富裕階級向けにだけ家具やイスを造る時代は終わろうとしていました。また、動力に蒸気機関を使うなど、産業界も変革の時代を迎えつつありました。社会は丈夫で安価なイスを求めていたのです。
 そんな時代の空気を察知したトーネットはムクの木を曲げることに興味を持ちます。ナラやカバの丸棒を釜で煮て、鉄のタガにはめて曲げていけば植物繊維は破断することなく曲げられるという方法を発見し、特許を取得します。このような方法で造ったイスや傘、ステッキをコブレンツの産業見本市に出したところ、宰相メッテルニッヒの目にとまります。産業振興を重要施策と考えていたメッテルニッヒはトーネットに産業としての可能性を見いだしたのです。ウィーンに行って皇帝に会うように説得されたトーネットは翌年、ウィーンで皇帝に会い皇帝御料局より特許を与えられます。
 トーネットの曲げ木のイスは従来のように手仕事中心ではなく、部材を一定の形状に成型しこれを組み合わせてイスを造る方法でした、組み立ては特殊な方法ではなく木ねじが主体ですので特別な技術も必要としませんでした。また、現在で言うノックダウン方式であったため、分解した状態でかさばるイスを輸送することで輸送コストも抑えることができたのです。数々の工夫を凝らしたトーネットのイスは爆発的に売れ、生産開始から現在まで数億脚が世界各国に販売されたと言われます。当時の著名な建築家も興味を示し、ヨーゼフ・ホフマンやアドルフ・ロースなどもトーネット社から曲げ木のイスを発表しました。また、この曲げ木のアイディアが後のミース・ファン・デル・ローエやマルセル・ブロイヤーの金属パイプイスに大きな影響を与えたことは言うまでもありません。
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